6月3日: 関ヶ原古戦場(初日-午後6)
次々とポイントを巡ります♪ |
ただ、今回は ダラダラとした長いだけの記事 なので、読む方が疲れると思います。
自分の記録としての記事なので、ご覧になる時は ざっとスクロールで写真だけ見れば十分 だと思います。
西軍の敗戦色が決定的になってきた時、ほとんどの部隊は(敵に背を向けて)撤退敗走する中、気骨を見せる為、
正面から敵軍の囲みに突っ込み、あっけにとられた東軍の部隊の隙間を通り抜け、追ってくる東軍に対し、
甥の 島津 豊久 が一部の部隊を率いて全滅覚悟で残って追撃を足止めし、叔父の 島津 義弘 を逃がして
島津家 の名誉と血を残したという、後世に残る戦闘ぶりを展開しました。
開戦当初、 千余名 いた 島津隊 は、もし敗走していたら背面からの攻撃に全滅したであろうと言われ、
前方への敵中強行突破 と 甥・豊久の捨て身のしんがりで、島津 義弘 たちは無事に薩摩まで
帰還したものの、生き残ったのはわずかに 80名あまり だそうです。( 生存率1/10以下 !)
このあたりは・・・
各武将の陣地跡地が近距離にいくつも存在してます。
次に
「残るも去るもご勝手」と述べた 徳川家康 に、(先に 家康 からの 事前ネゴ を受けていて)
「 無論、内府(家康)殿と共に三成征伐に参加致す! 」と賛同の呼び水役を担った人で、この意見により
評定に同席した武将全員が合戦への参加を決意したと言われています。
その功績から東軍先鋒 の名誉を家康から受けた武将です。
(一番に参加名乗りを挙げたこともあり、当然の流れとなった感じですね。)
ここは、月見の 宮大杉という 樹齢800年超 、つまり関ヶ原開戦の時からある(屏風にも描かれているそうな)
杉の大木 を祀った神社に含まれています。
すごく立派な大木・・・
犬○叉が居そう・・・☆((⊂(`へ´)q |
次にナビの案内で向かうと・・・
(みかけた 掃除のオヂサン も、人力めのことを 気にも留めていないようでした。)
あまり評判のよろしくない方々とされているようです。
特に 藤堂 高虎 は 日和見武将 などと、後世に至るまで評判は散々のようですね。
普通、学校の敷地内にある銅像とか石碑って、
的な偉人を用いることが通例だと思いますが、いくら中学をつくる敷地確保の事情があるとはいえ、
日も落ちてきたので、 関ヶ原初日の観光 はココで終了としました。
この人を見習いなさい! |
この石碑、ココにふさわしいのかよくわかりません… |
日も落ちてきたので、 関ヶ原初日の観光 はココで終了としました。
ヤベ! 今回はオチがおもしろくない~!!<(. . )> |